子供が発達障害で良かったこととか、発達障害である意味とか、考えるのはやめました。

こんにちは、ぽんぱです。

息子は発達障害児なわけですが、発達障害児の子育てのなかで、こんな風に思うこともありました。

 

「うちの子が発達障害で生まれてきた意味って、なんだろう?」

「発達障害児育児が大変だからこそ、見つけられる大切なこともあるはず」

 

大変な毎日の中で、その大変さの意味や目的が何か欲しかったんだと思います。

でも最近では、そういうことを探すのはやめにしました。

うまく言葉にできない部分も多いのですが、思うことを書いてみます。

 

※あくまで私がいま考えていることであり、良かったことや意味を持たれる方を否定するものではありません。

 

「コスパの悪い子育て」に、意味が欲しかった

私は、息子の育児にしょっちゅう疲れてしまっています。

なんとか毎日を過ごす中で、どうしてこんなに大変なのかやるせないことも多くて。

 

言い方がすごく悪いし最低だと分かっていますが、息子の育児を「コスパの悪い子育て」だと思っていたことがあります。

気力・体力・お金もたくさんかかるのに、(私が感じられる)息子の成長というリターンがあまりにも少ないと。

定型発達の娘にまったく手がかからないので、余計にそう思ってしまうのかもしれません。

何か希望が欲しかった

息子が小さいときは、かんしゃくやこだわりで大変な毎日が続き、「この子は私を苦しめるために生まれてきたのか」と思ったこともあります。

「私が死ねば、誰かがもっと上手に育ててくれるかも」とも思い、今思えばかなり追い詰められていました。

1日1日をなんとか生き抜いているという感覚で、まったく未来が見えなくて。

こんな大変な毎日に、何か大切な意味が欲しかったのだと思います。

みんながサッとできてしまうことに、時間をかける意味が欲しかった

息子は小さいころ、上着や肌着を着るのをひどく嫌がりました。

真冬になっても、ペラッペラの薄いジャンバーを羽織るのが精いっぱい。

素材が気に入らないのかと、何枚も買っては試し、家で着る練習もさせてみたり。

数か月かかってやっと着られたときには、もう冬も終わりでしたが、嬉しくて写真撮影したことを思い出します。

 

…でも嬉しかった半面、すごく虚しい気持ちもありました。

普通の子なら、こんなことに何か月もかからないよねって。

しなくて良い苦労を、親子でしてしまったような気持ちになってしまいました。

時間も労力もお金もかけて、できたことは「上着を着られたこと」だけ。

親子でほかのことに充てられた時間を、「上着を着るための時間」に費やしている。

 

その時間って、いったい何の意味があるんだろうって。

虚しくて、何か他の親子が得られていないものを、自分たちは得たんだと思いたかったんです。

正直に言えば、定型に産んであげたかった。

息子が生まれてくれたことには、とても感謝していますし、いまの彼の存在を否定したいわけでもありません。

でも発達障害ではなく、定型に産んであげられたらと申し訳なく思う気持ちもあります。

 

本人もこだわりたくてこだわっているわけではないのに、感情のコントロールがうまくいかず、本人の希望ではないのに問題を起こしてしまったり。

私も息子の全存在を肯定し、受け入れる母でありたかったけれど、あまりの息子の気難しさに疲れ、イライラしてしまいます。

 

息子を7年間育ててきましたが、発達障害であることの意味とか、良かったこととか、正直今のところはありません。

毎日は相変わらず大変で、息子なりには成長していますが、感情のアップダウンは激しく、勉強も運動も苦手で、苦労は多いです。

定型の子だからと言って苦労がないわけではありませんが、発達障害の子が抱える特有の問題が少しでも薄れていけば、生きやすさにもつながってくるのではないかなって。

 

ただ、淡々とやることをやるだけ

意味はないし、理由もない。

今は息子が発達障害に生まれたことに、意味もなければ、理由もないんだと思っています。

ただそういう気質を持っている息子が生まれた、ということだけを受け止めるだけで。

これから息子が成長していく中で、本人なりに意味や良かったことを見出してくれれば、それはそれで有難いと思います。

でも親である私が、息子に意味やよかったことを探すのも何か違うのかなと。上手く言葉にできないのですが。

ただ淡々と。

息子の発達にはたくさん考えなければいけないことがあって、母である私の労力・気力・経済力が追いつかないと感じることはたくさんあります。

でも今、私ができることは限られていて、それ以上のことはできません。

できることは精一杯やりたいと思いますが、それ以上のことはできないんです。

私のすべてを息子に注ぐことはできません。

ただ自分にできること・やるべきことを淡々とやるだけ。それ以外のことは考えても、しょうがないんだと思います。

まとめ:発達障害でなければ、気づかなかったことはたくさんある。

もちろん、発達障害でなければ気づかなかったことや、知らなかったことがたくさんあります。

出会えなかった人たちもいます。

それでも「発達障害でよかった」と思えるほどには、私は至ってません。

 

これから成長していくなかで、また考えも変わることもあるのかな?

発達障害はマイナスに捉えられることも多いと思いますが、プラスとかマイナスでなく、ただそういうものだと受け止められられるようになったらいいな。

私自身も勉強しつつ、淡々と息子に向かい合っていくようにしていきたいと思います。